テクノロジーが人類に勝ったその日から、そいつと対立する意味は無くなる

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Google DeepMind社の開発した囲碁AIが、プロ棋士イ・セドルに勝ち越しました。2016年3月12日のことです。

このニュースには、過小に評価するものから、過大すぎるものまで様々な反応が起きています。業界内は盛り上がっていますが、世間的には無関心な人がほとんどです。

僕は、この勝利が、将来振り返ったときに大きな転換点になっている気がします。
飛行機におけるライト兄弟、宇宙における月面着陸のように、AIにおいてはこの出来事が語られていくのかも。

どんなものにせよ、あるテクノロジーが一度人類の能力を上回ってしまったら、そのテクノロジーと戦おうとすることは意味を成しません。
「AI vs 人類」とか、「AIが仕事を奪っていく」とか言った議論は終わらせて、次の段階へ進むときが来ています。

人類はずっと同じことを経験してきた

テクノロジーが自分たちの能力を越えていくことへの不安と恐怖。それはAIに始まったことではありません。
1810年代、産業革命後のイギリスでは「ラッダイト運動」という、労働者達の機械打ち壊し運動がありました。

ニットの製造機が現場で活用されていくのを見た手工業者たちが、自分たちの仕事がなくなってしまうことを恐れ、機械を打ち壊して回る。
21世紀の僕らの視点からは滑稽で、抗いようのない大きな変化に乗り遅れた人たちに感じます。

今の僕らも、そんな彼らと同じ状況にいるのではないでしょうか。

テクノロジーの無視→抵抗→受容のステップ

テクノロジーは、一度成長してしまうともう戻ることはありません。
そして、中長期的には人類の生活を豊かにしてくれます。

労働者の、テクノロジーへの反発はラッダイト運動だけではありません。
それまで評価されていた能力の価値が相対的に下がる人たちの、自然な反応だと思います。

蒸気機関が発明されて、鉱山の力自慢は悔しい思いをしたでしょう。
計算機が発明されて、暗算能力は価値が下がりました。
WikipediaやGoogleが発明されてから、物知りは頼りにされません。

運動力にせよ計算能力にせよ、一度テクノロジーが人間を上回ってしまったら、その能力で勝とうとすることは虚しい抵抗です。

たとえば今、肉体を鍛えることや、円周率を100ケタ覚えようとすることは、基礎的なトレーニングか趣味(特技)としての扱いになっています。

テクノロジーvs人類

初めのうち、テクノロジーは人間より無能に見えますが、ある瞬間には抜かれ、その後はもう追いつけなくなります。
人間が能力を成長させることはテクノロジーを成長させることよりもずっとずっと難しいからです。

早く受け入れるほど、得るものも大きい

そこから先は、蒸気機関や計算機やインターネットを上手く使いこなして仕事をしていくほうへ、いち早く頭を切り替える必要があるのです。
世界のルールは大きく変わり、それまでのルールでプレイすることはもうできなくなります。

現代において、「インターネットに負けてたまるか!」とすべての情報収集を書籍や口伝で行おうとしたり、「電気には頼らない!」と火をおこして暮らそうとする人はかなり希少ですよね。

そして今、囲碁についても、テクノロジーと競い合う時代を終え、テクノロジーを使いこなす段階になりました。

先にAIが勝利を納めていたチェスでは、コンピュータと人間がチームになって戦う「アドバンスト・チェス」(フリースタイルチェスともいう)が生まれ、大会も行われました。
当然、人間だけで戦うよりも、そのレベルは上がっています。

しかもこれを提唱したのは、1996年にIBMのディープブルーに敗北したガルリ・カスパロフその人でした。見習うべき切り替え力です。

いち早く、次の段階へ

AIが囲碁で人類に勝ちました。今はまだそれだけのことです。

この敗北を、「まだ囲碁だから、(私の仕事は)大丈夫」と無視をするか、早々に受け入れてテクノロジーを使いこなす側に切り替えるかは、僕ら一人ひとりが決めることです。

これから先、しばらくは不安な時期が続くと思います。人類にしかできないこと、と思っていた知的作業がひとつひとつAIに追い越されていくでしょう。
そして、新しいテクノロジーが浸透するスピードは前世紀より明らかに上がっています。

AIと競い合うより、使う側へ今すぐにでも頭を切り替えたいですね。
そうじゃなければ、21世紀のネッド・ラッド(ラッダイト運動の中心人物)になるだけです。

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